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2005年08月26日
vol.30 技術者・職人を大切にしなくなった日本?
言うまでもなく物づくりの担い手は職人であり技術者です。
ところが今日の日本は技術者にとって魅力の少ない国になっていると思います。
私が中学校を終え、高校に入学した頃(昭和28年)、新日鉄や武田薬品の工場建設のため、多くの技術者が光市に赴任して来ました。
我が家の離れも新日鉄の社宅として利用してくれていました。
高専や工学部を出て間もない意気軒昂な技術者の後姿を見て、私も技術者になりたいと憧れを持ちました。
そして彼らの後を追うように技術を学び、夢膨らませてメーカーに就職しました。
若さもあって昭和30年代、40年代は技術者の道を選択してよかったと満足いっぱいでした。
しかし、50年代に入り、会社の経営者を直視し、又、他社の経営者の構成を知るにつれ、技術者を大切にしない国になりつつあると痛感しました。
戦後、生めよ増やせよで団塊の世代ができ、工業化社会に入るや工学部の学生を増産しました。
人が多くなることは、それだけ競争が激しくなることを意味します。
次第に工業高校を出た人よりも、大卒の方が多く入社する社会となりました。
一方で少数入社の事務系大卒が経営の中枢に就きます。
考えてみれば、メーカーと言えども売れてなんぼの世界であり、営業が幅を利かすのは当然です。
また、金の流れを握っている人が重要であることも当たり前です。
今私も営業のこと、資金繰りのことで頭を痛めています。
だからといって技術と勘を身につけた技術者がしっかりしていなければ、企業の発展は望めません。
理系離れが問題になって久しいのですが、技術者になりたい人が少なくなっているのは大事にされない先輩技術者を見ているからではないでしょうか。
”優秀であればあるほど自分の子供を技術者にさせようとしないのでは”と思ったりします。
役人天国ではこの国は衰退の道をたどると危惧します。
2005年08月19日
vol.29 本物志向の物づくり
今、物は豊かで、商品は市場にあふれています。
若い人は、子供に貧しい思いをさせまいと、教育を含めて精一杯頑張っています。
戦後60年の歩みの中では、
昭和30年半ばから、昭和48年の石油ショックまでが最も幸せを体感できたのではないでしょうか。
「夢のもてる仕事がしたい」「自分の家を持ち家族揃ってささやかな幸せが欲しい」
と思えた頃です。
「より便利なもの」「皆が欲しいと望むもの」を作ろうと考える事自体が楽しかったものです。
いつの世にも産業振興を図り、収入の場と、楽しいやりがいのある仕事を作り出すことが
社会の活性化につながります。
私も今、本物を求めた物作りに取り組んでいますが、
本物作りは苦労の多い、時間のかかる仕事だとつくづく感じます。
加工食品は勿論のこと、先ずは原料作りに骨が折れます。
先日も、ヤーコン畑を取材するために東京から大勢お見えになりました。
1ヘクタール、ヤーコン畑の続く風景を写真に収めながら、柔らかく大きいヤーコン葉を手に感激されておりました。
畑の土が干しあがる真夏に、
土がやわらかで、革靴が埋まりこむほどでした。
有機質のものを畑にたっぷり戻すと、ミミズが繁殖し、微生物もすみつき、
化学肥料を施すのと違って、土が固くならないのです。
これは芋の生長にとって重要なことです。
ヤーコン葉のところどころが虫に喰われていますが、これ以上、虫に喰われないように、自ら守る成分をヤーコンは持っているのです。だからこそ、無農薬で栽培できるのです。
液体クロマトグラフによる私たちの測定結果では、
無機質の化学肥料では、オリゴ糖の含有率が40〜50%と低く、
有機肥料では80〜90%と高品質のものが収穫できています。
本物作りの一端を紹介しました。
2005年08月09日
vol.28 豊かな生活は美しい地域づくり、国づくりから
今日の社会を、明治維新、先の大戦敗北に次ぐ危機と受け止めている人は多いと思います。
私も、昭和の終わりから平成の初めにかけて、日本の進路のことを考えたことがあります。
その中で、自分にできることは何かと考えました。
悲惨な戦争体験と、対象的に恵まれた高度経済成長時代の両方を経験しましたので、
現在の混沌とした時代への対応を考えねばとの気持ちでした。
戦後のモデルはアメリカでした。
アメリカのように、豊かな生活をしたいと、急速に工業化社会を実現させました。
アメリカに追いつき、追い越せとばかり頑張り、アメリカに継ぐ経済大国となりました。
昭和の終わりの頃、私の頭の中を
「歴史のあるヨーロッパはなぜ、日本に追い越されたのか」
と疑問を抱いていました。
ところが、ヨーロッパを訪れ、ドイツ、フランス、スイス、オーストリアなどの
美しい国土を見るにつけ、全く違った印象を持ちました。
先進国ヨーロッパは、工業化社会の後を読んで、国づくりをしていたのではないかと。
食糧自給率100%の農業国で食も豊かです。
美しい緑と花のある町、
延々と続く美しい牧草地帯、
緑の中に赤い屋根と白い壁の調和した美しい家並みは
これらの国に共通していました。
これらの美しい風景に接し、これからの日本のモデルはヨーロッパだと思いました。
花や植物の豊かな町、
美しい海岸線の連鎖、
牛など動物の放牧されたのどかな牧草地帯の連鎖、
整備された美しい森林などで
国や地方を作り変えることが求められます。
そのためには、これまでのような小さな市町村にまかせた取り組みではなく、
広域的につながりをもった、美しい地方に作り直さねばなりますまい。
ささやかではありますが、こんな夢を持ちながら
ヤーコンと取り組んでいる私です。
2005年08月04日
vol.27 地球の温暖化は確実に進んでいるとヤーコンで体感
今年はヤーコンが西日本で壊滅寸前の状態にあります。
逆に、東日本では順調のようです。
これは春先の発芽と初期生育の時期に寒く、かつ雨が少なかったこと、
そして生育状態の不十分な中で暑い夏を迎えた為だと思います。
私は平成3年から、毎年ヤーコンを作り続けています。
春が暖かく、冷夏の年が一番よい成果を上げることができました。
平成3年は台風19号が猛威をふるいましたが、出来は良かったのです。
だからこそ、ヤーコンで新しい産業をつくろうと、夢を膨らませました。
その後、毎年「今年は異常気象だ」とメディアは書き続けましたが、
どうやら、それが常態であることに、人は気づいていないようです。
茹で蛙と同じです。
昨年は台風18号が平成3年の19号と同じくらい、猛烈に襲ってきました。
それに、台風の日本上陸は10個と過去最高となりました。
勿論、ヤーコンの出来はよくありませんでした。
ヤーコンは年々確実に北上していると思います。
北に行くほど、良い成績が得られるようです。
このような認識のもと、今年は私も北海道で栽培をお願いしています。
お蔭で西日本の不作を補えそうです。
サラリーマン時代には科学的裏付けによって、地球の温暖化を頭で受け止めていました。
何年か後には、海の水位が何センチ上がると、数字も頭に入っていました。
起業後は、目と体で感じています。
地球が徐々に壊れていると危惧するのは心配性の精でしょうか。
2005年08月01日
vol.26 ヤーコンの新品種に期待ふくらむ
10年以上の栽培経験から、アンデス生まれの在来種は、日本の気候に適応しにくいのではないかとの感想(直感)をもっていました。
一方では、植物って不思議な力を持っており、
年輪を重ねるにつれ、徐々に環境になれ、順応していくようです。
1年目よりも、2年目、3年目の方が形の良いものになったという
農家の話を聞きました。
しかし、ヤーコンの語りかける悲鳴の方が強いと感じます。
「僕はアンデス生まれ。日本の暑い夏は閉口するよ。
霜は勿論のこと雪が降ると死んじまう」と。
アンデス地方は赤道に比較的近いとはいえ、標高1500〜2500メートルの高地に自生してきました。
日本のような四季はなく、一年中、秋なのかもしれません。
インド、インドネシア、フィリピンなどで日本人が現地の人に栽培をさせていますが、
こちらも標高1000〜1500メートルの高地です。
いずれも生芋を入手しましたが、
日本のものより良質です。
私のところの種芋を持ち込んだものもあり、
種芋の違いによるものではなく、明らかに気候の違いによるものでしょう。
このような体験をもっていますので、中西建夫先生が
「このままでは、ヤーコン生産地が壊滅する」
との一言に共感を覚えるのです。
それゆえ、先生の作り出された新品種である
サラダオトメ、サラダオカメ、アンデスの雪(この順番に世に出されました)
に期待をしているのです。
私自身もこれらの品種を栽培して見て「これで日本のヤーコン生産地が確実に広がる」と
安堵の気持ちを持った次第です。

